ときどきおとぎ

いつかのどこかのだれかのはなし

サボテン

 雨ってだけで、立ち上がれない日も、あるのだ。

 朝起きて、希望を託して開けたカーテンの隙間から、重苦しい湿った光が入ってくると、よろよろと布団にまた戻りたくなるような、そういう日。

 ただでさえ布団から出たくなかったのに、雨か。

 時刻の割に暗い窓は、今日一日ずっと明るくはならないことを予感させる。

 朝は明るくなきゃ嫌なのだ。心の雨降りや曇りが続いていて、私の心に居座っている謎の植物がしょんぼりしている。だから今日はこいつに、本物のお日様を見せてあげたかったのだ。なのに、なのに……

 しょげてしまった。心の中の植物と一緒に私も。一度出てきた布団にもう一度戻るのもそれはそれでエネルギーを使うので、椅子に――ハンガーにかけるのを怠られた服たちが無造作に引っかけられた椅子に、かまいもせず座る。服たちも可哀想だが、私も、私だって、しわくちゃでしなしななのだ。

 机を見やる。本とか、コップとか、空き箱とか、ごちゃごちゃして、カーテンを開けた時くらい、心がしょんぼりする。謎の植物が、いっそううなだれたように思う。申し訳ない。雨は私のせいじゃないけど、この机は私のせいだ。

 積み上げられた本の向こうに、このあいだ雑貨屋でたまたま買った変なサボテンがあった。丸っこくて、てっぺんにちっちゃい花をつけて、間抜けな顔をしている(なんか顔がついていたのだ)。なんか間抜けな眉毛で、悲しそうにこちらを見ている。私も同じくらい悲しそうな顔をして見つめ返す。あの人にあげる予定だったのだ。

 変な物を、喜んで置くようなタイプではなかった。それは知っていた。でも、なんか、変な物を置いているあの人を見てみたい気分になった。変な物をもらって、うわ変だって思いながら、どうやってあの部屋にそれを置くんだろう。どこにどうやって置いて、あの四角い部屋と折り合いをつけさせるんだろう。

 昨日、こいつを鞄に入れて、あの人の整った家へ行った。渡せなかった。

 「植物って、予測不能だから嫌なんだよね」

 まあそうだな、たしかに、植物は予測不能だ。急に枯れたり、伸びたり、花を咲かせそうで咲かせなかったり。でもそういう、予測できなさがまたよかったりするものじゃないかなぁ。

 ふと、最近の彼の冷たい態度が頭によぎった。その目線の先の、突発的で、せわしなくて、予想外にサボテンとかを持ってくる、私の姿も。

 「私のことも、予測不能だから嫌?」

 「そうは言ってないじゃん」

 私は、彼の四角い部屋に、私の丸顔の分身を送り込もうとしていたのだ。すべてが整理された彼の部屋の中で、私はいつも居場所が見つけられなかった。だから、ちょっとでも似つかわしくないヘンテコな植物を置いて、予測できなさを一緒に楽しむ、その空間を作りたかった。彼の四角い心の中にも、まあるい、私用のスペースがいつかできるんじゃないかと願っていた。

 面倒くさそうな沈黙の中で、居場所のない四角い部屋にいたたまれなくて、私のちいさな分身をつれて、彼の家を出た。おまえと私のいるべき場所はここじゃあないらしい。

 だからといって、この汚い机の上にいたいわけでもないよなぁ。お菓子の殻が散らばる机で、やはり所在なげに眉毛をハの字にしているサボテンを見やる。お前も私の心の植物も、可哀想になぁ。

 とりあえず、もう少しましなところへ移住させないと。これ以上しょんぼりしてしまっては、私も布団へ逆戻りだ。部屋はどこも汚い。仕方なく窓を開け、ベランダへ出てみた。

 雨はあがっているようだ。雲間から光が足を降ろしている。湿っているけど意外と寒くない。何時くらいに、とだけ言い残して一向に来る気のしない友達のような春が、少しだけ風で気配を示す。心の中の植物も顔を上げた。別に晴れじゃないけど、これくらいならいいらしい。サボテンの眉毛もちょっと角度をあげて、ここがいいと言っているようだ。とたんに体と心が軽くなり、狭いベランダでくるっと回った。

 あの人にはきっと、この雨上がりのよさはわからないんだろうな。さびしい人、と思いながら、光る町を見下ろした。

マスト・マスク

 20XX年、世界中を混乱に陥れたcovid-19がワクチンの普及により殲滅されようとした矢先、最凶最悪の変異株が出現し2020年以前の世界に戻ることは絶望的になった、と公に発表された。それから数十年が経ち、国からは、毎日分のマスク配給券が配られ、マスク警察が動員され、人々は服を着ている時には常にマスクを着用するようになっていた。外ではもちろん、家の中でも、飲食中も、である。

 もちろん、マスク関係の技術も進歩した。マスクをしている限りはウイルスは入り込めない。マスク特有の不快感、息苦しさも軽減され、外の空気を吸う感覚に極限まで近づいた。そして、飲食時にはマスクが変形し、飲み物や食べ物を中に入れて密閉する。こうしてマスクを付けっぱなしでも飲食ができるようになった。したがって、人々がマスクを外すときは入浴時と……他の、服を脱ぐべき時に限られるようになった───

 

「おい、お前どこ見てんだよ」

「なんだよ、別にぼーっとしてただけだよ」

「いや、絶対相田のマスク見てただろ」

「見てねぇよ」

「見てた」

「見てねぇって!」

「いやぁ、無理もねぇよ。誰だって一度は想像するもんなーあのピンクのマスクの下……」

「やめろよ!」

 思春期の青年は顔を赤らめる。 

「おいおい、高木想像しすぎ笑 てかよー、佐伯いっつも鼻先出ててエロくね?隠す気ないじゃん」

「だからそういう話やめろって」

 高木と呼ばれた青年は目を伏せた。女子のそんなところを凝視してるなんて間違って思われたら高校生活一巻の終わりだ。

「ねぇ聞いたー?今の高木たちの会話。ほんっと男子ってやんなっちゃう」

「あーね。てか高木ってさ、意外に鼻長高くない?」

「わかるわかる、目も二重だし。見た目だけは男らしいんだよねぇ。」

「まあマスクはいつもダサいけどwwてか私今度まつエク行こうと思って」

「えー次は何センチにすんのーw」 きゃっきゃわいわい

 なんで俺はこんなに気を遣ってるのに女子はズケズケと…と、高木は理不尽に思いつつマスク越しに鼻を撫でながら、女子の会話をおかずに昼ご飯を食べていた。

 だいたい、マスクが何だっていうんだ。

 つい十数年前までは、飲食の時や家にいる時はみんなマスクを外してたっていうじゃないか。(ちょうどその頃、渋谷のJR改札前で行われていたクラスターフェス(反自粛運動;参加者はマスクを外しウイルスの危険性のなさを主張する)が、「公共の福祉に反する」という理由で事実上弾圧され、果物を包むアミアミなんかをマスクにしていた人々は破廉恥だという目で見られるようになって今じゃ「そういう動画」でしかお目にかからないし、顔面露出は立派な公然猥褻となっているわけだけれども。)

 マスクの下にあるのなんて、口と鼻くらいだ。ばかばかしい。こんなの見て何になるんだ、と、鏡を見ながらいつも思う。でもくしゃみをしたり鼻水が出てるところを見られたらもう二度と社会に出られなそうだから、まあ、保険としてあってもいっか。

 目線を上げた先、電車の中吊り広告の「端元栞奈、気になるマスクの下事情」という文字に瞳孔が開くのを感じたが、首をぶるぶる振って電車を降りた。

 人のいない、夕方の駅ホーム。眩しすぎる夕焼けに目を伏せながら階段へ向かうと…少し登ったところに、クラスメイトの相田がいた。

「お、あいだ……」

「ねぇ、」

 異様な声の雰囲気に、高木の胸は鼓動を響かせた。

「高木、私のこと、どう思ってる……?」

 こんな台詞、本当にあるの??高木って俺??俺高木だっけ??

「高木…は、相田さん…のこと、嫌いじゃない…と思うよ」

「何で他人事なの笑」

 こいつこんな可愛かったっけ…いや、可愛かった。笑ったときの目元のしわとか、マスクのしわとか、眉間のしわとか、睫毛の角度とか、毛穴のなさ、奥二重、眉毛の細さ、おでこの広さ、富士額、頬骨の位置、耳の溝の形、蒙古襞のない目頭、ブルベ夏の肌、白目-黒目比……可愛いことは知ってた。知ってたから見ないようにしてたんだ…

「あのさ、」

「お、オゥ?」

「私…」

 相田の手が、ふわっと浮いて、ちょっと宙を彷徨い、一気に耳へ……

「!??!??!!?」

「高木になら、見せてもいいかなって…うう、恥ずかしい…って高木!?」

 高木は、もうwhat he used to beではis not。

「……マスク、ええやん」

 マスクを赤く染め、気を失いかけた高木の、(気絶する前)最後の一言だった。

 

 

 

???「マスク社会が浸透して、はや数十年。見事なものですね。」

???「本当です。まさか本当に、こんな時代が実現するとは。」

???「人類は見た目によって人に上下をつけてきました…それは、顔が見えている限り必然的なことだったのです。特に口!口というのは一番美しさに差が出ますからね。」

???「差が出るのは鼻ではないですか?」

???「いや目な気もしますが」

???「ともかく!顔の半分を見えなくしたことで、憎むべきルッキズムは弱まったはずです。」

???「これこそ政治的に正しい行いですね。」

???「しかし、やはり顔の上半分も隠さないと完全なルックス・フリーにはならないのでは?」

???「ごもっとも。そこで、次の流行は『新型結膜炎ウイルス』です。みなさま、メディアによろしくお伝えいただくよう。」

夜の散歩

 月に向かって歩いている。

 どうってことはない。ただ、地球から出ようっていうだけの話だ。

 理由はまあ、沢山あるわけだがそうさな、とりわけこの地球って場所をおさめている人間様に飽き飽きした面が大きい。まあ私もその端くれなわけではあるが。

 奴らそうよ、まずあの尊大な態度が気にくわぬ。自分たちを特別だと思い込んでいるその愚かしさが、脆さが、傲慢さが、見てるこちらを恥ずかしくする。あまりに愚か。馬鹿と呼んで良かろう。かの馬鹿ども、自らを「特別」と見ることでしか、自らの価値を定義できない。知能や思考なんて、人間の内でしか機能しない、取るに足らない副産物に過ぎないのに。言語なんて、とるに足らない思考を、もっと濁らせて伝える不完全な媒体に過ぎないのに。人間の、自らの生み出したものへの信仰たるや、すさまじい。一体いつまでバベルの塔を作り続けられるおつもりか。

 そうそう、最近半生物が、人間を滅ぼそうとしているのだそう。いや、彼らが人間を殺し尽くせるわけなかろう。人間を殺すのは、最後は人間に違いない。人間の人間に向けられた憎悪ほど醜く強いものはないと、彼らは知っているのだろう。完全な異質より同質の中の異端を憎む。この世に神がいるなら、それがこれを望んだのだろう。そうなるべくしてそうなったのだから、しかたあるまい。猛き者も遂には滅びぬのだ。ちょうど私も、人間があること、人間であることに疲れてしまったとこだった。

 

 なんて、どうでもいいどうでもいい。人間なんてどうでもいい。たった一つを除いてはこの世の全て、海に浮かぶわかめと同じくらいどうでもいいものだ。ただ私にとっては、全人類より、かけがえのないものがあった。それだけなのだ。

 全人類をそうさな、オキアミとするなら、それはクジラだった。取るに足らない、小さな小さなオキアミたちを、一飲みにしてしまうような、そんな途方もなく大きな、視界を覆い尽くすような何かだった。その一息に、飲み込まれてしまいそうな、飲み込まれてしまいたいような、そんな何かだった。それの影に、私の太陽は覆い隠され、海は真っ暗になった。

 どうもそれは、私を飲み込んではくれなかった。私はその影に潜んだまま、陽に当たるのを避けた。それよりも大きく計り知れない存在は、太陽しかなかったのだ。太陽なんて見えなくていいと思った。それの大きさがくっきりと影になって、私に染みついた。私もそれの一部を、一部でなくともそれの残した何かをまとえたような、そんな満足感で、広く暗い海は十分私に優しくなった気がしたのだ。

 私が小エビであったのか、わかめであったのか、あるいは小魚であったのか、私には知る由もない。広い海に鏡を持つ者はいないのだ。私には、鱗に自分を映すような仲間と言われる存在は生来いないようだった。だからこそ私は、それの影の一部、または全部こそ私だと信じたのだろう。少なくとも私の全部は、それの影によって、海にくっきりと形を残しているのだと思った。私はそれの影であることが嬉しかった。それに置いて行かれないように、尾ひれと胸びれと、いや、ひれだったという確証はないけども、とにかく自分についている何かを懸命に揺り動かして、それについて行こうとした。もう一度陽に当たったら、自分は干からびて死んでしまうような気がして、いっそ死んでもいいのだけど、死ぬならそれの影の中がいいと、やはり必死にそれを見上げて、それに合わせて何かを振った。

 ある日、海面を突き刺す太陽に撫でられた、何かが映った。ソイツは太陽の光を受けて一杯にきらめいていたのに、太陽の目の届かない場所―それの影に入ると、ふう、と息をついた、ように見えた。光をまき散らしながら海流より速くどこかへ向かっていたソイツは、その途端ひれを止めた。私もソイツも、人間ではない何かであるから、表情なるものは読み取れない。ただソイツは流れるに任せ、影の主であるところのそれには目もくれず、前か横かわからないどこかを見、あるいは見ず漂っていた。

 相変わらず私は、身体に備わる、どうもちっぽけな道具を振り回して、なんとか影を追った。不快に響く八音階が私の耳の奥かどこかを上がったり下がったりして、だんだんとせき立てた。こんなもの、早くやめた者勝ちなのだ。わかっている、というより知っている。知っているけれど、やめられない。身体は疲弊しキシキシ鳴った。音が身体に響いて痛い。それでも進むしかあるまいな。影の外で何が待ち受けているのかなんて、もうとっくに忘れてしまったのだから。 

 目が霞む。軋む両ひれ、あるいはそんなような何かで上を向き、ソイツを見た。ああ、ソイツはひれなど動かしていない。持っていすらしないのかもしれない。こちらからはよく見えぬ。ただそれの、大きなそれの影を追っているようではなかった。もはやソイツがそれを背負っているのかも知れない。ソイツはむしろ、影のことなど気にもとめていなかったのかもしれない。それの方こそソイツを追って、私には見えないずっと後ろにある尾ひれをばたつかせているのかもしれない。そうであるならば私は、なんであろうか。下を見れど、私の影はそれの影として、深い海のそこへ消えているだけだ。

 その時、大きなそれが、やはり大きな腹びれを、一つ漕いだ。それの下では対流が生じて、私は抗うまでもなく、影の外に放り出された。明るすぎる照明の下、目をつむる前最後に見えたのは、それに抱き寄せられた、ソイツの姿であった。それの濃い影の下でソイツは光っていて、ソイツは顔を持たなくて、ソイツは動かなくて、そのことにも気づかず、それはソイツを飲み込んで、静かに静かに、動きを止めた…

 

 そんなわけで、月へ向かって歩いている。

 どうってことはない。ただこの世界から出ようってだけだ。

 月はどこまでも先にあって、私は追いつけないまま、追い続けた。

 足に引っかけたサンダルはカラカラ鳴って、コンビニは人を吸い付けた。道の裏では若い人の話し声が聞こえて、この町のどこかで消防車が走った。闇は無数の光を浮かべる。私はまっすぐに歩いた。ずっとずっと歩いた。

 行き止まりについた。人が行き止まりだと言うところについた。月はそこにあって、私は月に足を踏み出した。月は私を飲み込んだ。

 

 

カフェオレとボブ

 

 

 失恋をした女性はよく、髪を切る。髪と一緒に思い出を捨てているのかもしれないし、単に気分を変えたいのかも知れない。私はしかし、髪を切ることと恋愛関係の終わりがその不可逆性ゆえに引きつけ合い、切っても切れない仲になっているのだと思っている。

 髪を伸ばすのは、長い年月を要する連続的な営みであり、その間持ち主は片時も離れないこの死んだ細胞の集合を世話し、苦しみつつも愛おしむ。それなのに、切るときは一瞬なのだ。髪の束がパラパラと落ちていく、その瞬間、もう私はあの髪の長い女の子ではなくなる。その刹那を境として、それより前の自分とは確実になにか、違う生き物になっているような、そんな感覚になる。そしてもう、簡単には戻れない。次にまた長髪と呼ばれるくらいになる時には、切る前ともやはり別の長髪なのである。

 恋愛というもの、少なくとも目に見える関係性の終わりは、やはり不可逆なものだ。いや、例外はあるのかもしれないけど、少なくともあの瞬間、別れると決めた瞬間、別れようと言われた瞬間、世界の色は変わる。別れの電話を切った後の沈黙は、電話をかける前のそれとは別の温度、別の匂い、別の味がする。別れの契約を交わした後の相手の歩幅や歩く速度、声のトーン、表情は、以前のその人と似ている何かでしかない。それまでかけた、かけられた愛情も、時間も、言葉も、怒りも、許しも、依存も、わがままも、全てが積もってゆっくりと生成された関係性が、この一瞬で、一定の落差を持って崩れる。その過程を逆再生することはできない。もし戻ることがあるとしてもそれは、滝から落ちた水が蒸発して空中を漂い、また同じ場所に戻るように、それまでとは別の道筋を経たやはり前とは違う関係なのだ。

 そんな二つの不可逆は、それらの伴う空虚感、断絶感、不安定感なんかで引かれ合うのだろう。前の関係、前の幸福感に決して戻れない痛み、冷たさ、恋しさを、髪に対するそれらを自らに課すことで自分に教え込んでいるような、そんな気がする。

 

 

 そんなこんなで、髪を切った。つまり、失恋した。永遠とも思えるような、ただほんのり甘く、ぬるい恋路を断った。甘くぬるく、愛らしい男だった。

 

 彼の毎朝入れるカフェオレはミルクたっぷりで甘すぎず、私はあの人といた3年間で、コーヒーの苦味を忘れてしまった。ただ、その苦味が、大事なもののような気がしたのだ。私は、ブラックの酸味と苦味に目を覚ます朝を欲していたのかもしれない。

 でも彼に、いつもの笑顔でミルクを注ぐ彼に、それを告げる熱もいつしかなくしていた。ああ、なんて愛らしい微笑だろう。彼の作るえくぼに私はいつも、ストン、と落ちてしまう。彼は何も欲しがらない。何も求めず、ただカフェオレを渡してくる。

 そんな彼に私は、自分の全てをあげたいような気持ちになる。仕事の充実だとか趣味の充実だとか、そんなものどうだっていい。若かりし熱を帯びた私が夢を託した会社には、いつしか惰性で通っていた。残業も休日出勤も、彼に与えるための私を減らすだけで、だから出世も目指さなかった。友達と会っている時間も、彼がどこにいるのか何をしてるか頭のどこかで心配になって、すんなり楽しめなくなって、結局自分から誘うことをしなくなった。これじゃだめだと知っていたけど、その苦々しさもミルクで薄めた。

 

 彼という人はなんというか、穏やかさの中に動かない何かを持っている、そんな人だった。でも私にはその動かないものが何かわからなかった。笑顔のその奥にあるものを、探ろうと手を伸ばしていたけど、わからなかった。わからない方がいいかもしれないと思ったとき、私は自分を冷ましたのだろう。

 

ねえ、

どうしたの?

世界で一番大事なものって、何かな

うーん……。君、って言いたいとこだけどさ、

うん

僕は君に、僕を一番大事にはして欲しくないんだよ。だから、僕も言わない。

……どうして?

だって、君は君を一番大事にしてるときが、一番輝いているはずだもの。

そんなの、わからないでしょ。

僕はそう思ってるんだよ。君が大事だから、君が大事とは言わない。

……変なのぉ。

 

 優しさ、もしくはそれに擬態する何かが怖かった。本当は私をどう思っているのか、わからないし聞けなくなっていた。求められないことが怖くて怖くて、私はただ私を与えることしかできなくなっていた。こちらから与えるのをやめても彼が求めてこないなら、それは私が要らないってことだもの。火傷するほどの熱さでも、顔をしかめるほどの苦さでもいいから、いつものカフェオレに何かを感じてみたかった。

 

 彼の方は、いつも変らなかった。

 彼への愛情が積もって積もって、いつしか溶けきらなくなっていた私を横目に、彼は何も変っていないようだった。そうだ、お手製のカフェオレはいつまで経っても同じ甘さのままだったのだ。変わらず甘い。変わったのは私の味覚の方で、もっと甘く甘くしてほしくなっていた。

 

 彼が一時的に、実家に帰ることになった。遙かぶりに、カフェオレのない朝が来る。自分で作ってもいい、でもそれをしなかった。私は甘いのが好きだったわけじゃない。そうだ。一人なら甘いコーヒーなんて飲まなかった。彼が、いいから飲んで、と初めてカフェオレを淹れたあの日を思い出す。私は最初嫌々で、でも少しずつ慣れていって、だんだん飲まなくてはいられなくなって、彼にお願いしてまで淹れて貰った。

 インスタントコーヒーに、熱々の湯を注ぐ。マグカップから湯気が立つのを、久しぶりに見た気がする。少し躊躇ったけど、一息に啜ってしまいたい欲求に駆られた。くちびるに、じんとした痛みが走る。舌は驚いて後ずさる。後ずさった舌に液体は追いつき、熱と苦味でいじめてくる。忘れていた刺激に、身体中が火照ってじんわり汗をかいた。温められて溶け出したように、涙が零れた。

 

 男に、メールを打つ。荷物をまとめる。

 愛おしい男だった。私を求めてはこない男だった。私は初めて、あの人に対して泣きたいような気持ちを持った。いや、持っていたことに気づいた。ああ、私はずっと悲しかったのか。与えることは、求めることだった。求められることが、与えられることだった。彼は決して、私が求めたものをくれはしなかった。私が与えたものを、求めてはくれなかった。

 

 荷物をまとめ終わった頃、男は帰ってきた。いつも微笑をたたえているあの人が、焦ったような困ったような顔をして少し乱暴にドアを閉じた。リビングの真ん中に立つ私と、玄関に立つ男は、互いを見つめたまま一瞬静止した。見たことのないあの人の表情を見る私の顔も、やはりあの人の見たことがないそれだったのだろう。靴をほっぽり出して、男は私を腕にしまい込んだ。熱い。もう私に、溶けるものは残ってない。一度なくなってしまったものは、もう戻らない。溶かしたのが彼だったら、きっと一緒にいられたのだろうなと思うと、やっぱり少し悲しかった。頭のてっぺんあたりがぽたぽたと打たれる。男の人が泣くとき特有の嗚咽が、頭から、耳から、彼の腕から、私の心臓を揺らす。この人、泣く人だったっけ。いや、「彼」は泣かない。今私を抱くのは、私の知らない、もう知ることのない男だ。

 

 充血した目に情けない表情を浮かべた男は、言葉を発しようとしては飲み込む。きっと、昨日の私なら、こんな男を愛おしいと思ったのだ。ずっと求めていた姿だった。でももう、求めた私ではない。諦めたわけでもない。ただ、要らなくなった。

 「愛していたよ」。痺れを切らしたわけではない。ただ、彼が精一杯引き出そうとしている言葉が何であったとしても、やはり今の私には不要なものだから、永久にその言葉が聞けなくなることも恐ろしくはなかった。むしろ自分の持っていた気持ちを永久に伝えられなくなってしまうのが嫌で、躊躇いも思いやりもせず言葉を放った。ずっと言いたくて、でも思っている時にはずっと言えなかった。その幼気で臆病な女の子の墓に花を供えて弔うと、立ち上がる。

 「元気でね」。まだとっておきの一言を諦めず探している男を背にして、ドアへ歩いた。

 「俺も、俺も愛してた。世界で一番大事だった。ありがとう。ごめんね。」恰好のいい言葉を諦めて、早口で男が言う。ありきたりなフレーズだな。受け取る人を失ったその言葉が、ふわふわと部屋を漂った。

 

 外の空気は少し冷たくて、透き通った味がした。ピンクの靄がかった世界のまろやかな甘ったるさは部屋に置いてこれたようだ。

 髪の重さに気づく。彼は長いのが好きそうだからと、この何年かで伸ばし続けた。本当は、彼がそれを好きかどうかなんて知らなかった。わからずじまい。でももういい。頭を後ろへ引っ張る、この3年間をバッサリ切ろう。切ってしまおう。