失恋をした女性はよく、髪を切る。髪と一緒に思い出を捨てているのかもしれないし、単に気分を変えたいのかも知れない。私はしかし、髪を切ることと恋愛関係の終わりがその不可逆性ゆえに引きつけ合い、切っても切れない仲になっているのだと思っている。
髪を伸ばすのは、長い年月を要する連続的な営みであり、その間持ち主は片時も離れないこの死んだ細胞の集合を世話し、苦しみつつも愛おしむ。それなのに、切るときは一瞬なのだ。髪の束がパラパラと落ちていく、その瞬間、もう私はあの髪の長い女の子ではなくなる。その刹那を境として、それより前の自分とは確実になにか、違う生き物になっているような、そんな感覚になる。そしてもう、簡単には戻れない。次にまた長髪と呼ばれるくらいになる時には、切る前ともやはり別の長髪なのである。
恋愛というもの、少なくとも目に見える関係性の終わりは、やはり不可逆なものだ。いや、例外はあるのかもしれないけど、少なくともあの瞬間、別れると決めた瞬間、別れようと言われた瞬間、世界の色は変わる。別れの電話を切った後の沈黙は、電話をかける前のそれとは別の温度、別の匂い、別の味がする。別れの契約を交わした後の相手の歩幅や歩く速度、声のトーン、表情は、以前のその人と似ている何かでしかない。それまでかけた、かけられた愛情も、時間も、言葉も、怒りも、許しも、依存も、わがままも、全てが積もってゆっくりと生成された関係性が、この一瞬で、一定の落差を持って崩れる。その過程を逆再生することはできない。もし戻ることがあるとしてもそれは、滝から落ちた水が蒸発して空中を漂い、また同じ場所に戻るように、それまでとは別の道筋を経たやはり前とは違う関係なのだ。
そんな二つの不可逆は、それらの伴う空虚感、断絶感、不安定感なんかで引かれ合うのだろう。前の関係、前の幸福感に決して戻れない痛み、冷たさ、恋しさを、髪に対するそれらを自らに課すことで自分に教え込んでいるような、そんな気がする。
そんなこんなで、髪を切った。つまり、失恋した。永遠とも思えるような、ただほんのり甘く、ぬるい恋路を断った。甘くぬるく、愛らしい男だった。
彼の毎朝入れるカフェオレはミルクたっぷりで甘すぎず、私はあの人といた3年間で、コーヒーの苦味を忘れてしまった。ただ、その苦味が、大事なもののような気がしたのだ。私は、ブラックの酸味と苦味に目を覚ます朝を欲していたのかもしれない。
でも彼に、いつもの笑顔でミルクを注ぐ彼に、それを告げる熱もいつしかなくしていた。ああ、なんて愛らしい微笑だろう。彼の作るえくぼに私はいつも、ストン、と落ちてしまう。彼は何も欲しがらない。何も求めず、ただカフェオレを渡してくる。
そんな彼に私は、自分の全てをあげたいような気持ちになる。仕事の充実だとか趣味の充実だとか、そんなものどうだっていい。若かりし熱を帯びた私が夢を託した会社には、いつしか惰性で通っていた。残業も休日出勤も、彼に与えるための私を減らすだけで、だから出世も目指さなかった。友達と会っている時間も、彼がどこにいるのか何をしてるか頭のどこかで心配になって、すんなり楽しめなくなって、結局自分から誘うことをしなくなった。これじゃだめだと知っていたけど、その苦々しさもミルクで薄めた。
彼という人はなんというか、穏やかさの中に動かない何かを持っている、そんな人だった。でも私にはその動かないものが何かわからなかった。笑顔のその奥にあるものを、探ろうと手を伸ばしていたけど、わからなかった。わからない方がいいかもしれないと思ったとき、私は自分を冷ましたのだろう。
ねえ、
どうしたの?
世界で一番大事なものって、何かな
うーん……。君、って言いたいとこだけどさ、
うん
僕は君に、僕を一番大事にはして欲しくないんだよ。だから、僕も言わない。
……どうして?
だって、君は君を一番大事にしてるときが、一番輝いているはずだもの。
そんなの、わからないでしょ。
僕はそう思ってるんだよ。君が大事だから、君が大事とは言わない。
……変なのぉ。
優しさ、もしくはそれに擬態する何かが怖かった。本当は私をどう思っているのか、わからないし聞けなくなっていた。求められないことが怖くて怖くて、私はただ私を与えることしかできなくなっていた。こちらから与えるのをやめても彼が求めてこないなら、それは私が要らないってことだもの。火傷するほどの熱さでも、顔をしかめるほどの苦さでもいいから、いつものカフェオレに何かを感じてみたかった。
彼の方は、いつも変らなかった。
彼への愛情が積もって積もって、いつしか溶けきらなくなっていた私を横目に、彼は何も変っていないようだった。そうだ、お手製のカフェオレはいつまで経っても同じ甘さのままだったのだ。変わらず甘い。変わったのは私の味覚の方で、もっと甘く甘くしてほしくなっていた。
彼が一時的に、実家に帰ることになった。遙かぶりに、カフェオレのない朝が来る。自分で作ってもいい、でもそれをしなかった。私は甘いのが好きだったわけじゃない。そうだ。一人なら甘いコーヒーなんて飲まなかった。彼が、いいから飲んで、と初めてカフェオレを淹れたあの日を思い出す。私は最初嫌々で、でも少しずつ慣れていって、だんだん飲まなくてはいられなくなって、彼にお願いしてまで淹れて貰った。
インスタントコーヒーに、熱々の湯を注ぐ。マグカップから湯気が立つのを、久しぶりに見た気がする。少し躊躇ったけど、一息に啜ってしまいたい欲求に駆られた。くちびるに、じんとした痛みが走る。舌は驚いて後ずさる。後ずさった舌に液体は追いつき、熱と苦味でいじめてくる。忘れていた刺激に、身体中が火照ってじんわり汗をかいた。温められて溶け出したように、涙が零れた。
男に、メールを打つ。荷物をまとめる。
愛おしい男だった。私を求めてはこない男だった。私は初めて、あの人に対して泣きたいような気持ちを持った。いや、持っていたことに気づいた。ああ、私はずっと悲しかったのか。与えることは、求めることだった。求められることが、与えられることだった。彼は決して、私が求めたものをくれはしなかった。私が与えたものを、求めてはくれなかった。
荷物をまとめ終わった頃、男は帰ってきた。いつも微笑をたたえているあの人が、焦ったような困ったような顔をして少し乱暴にドアを閉じた。リビングの真ん中に立つ私と、玄関に立つ男は、互いを見つめたまま一瞬静止した。見たことのないあの人の表情を見る私の顔も、やはりあの人の見たことがないそれだったのだろう。靴をほっぽり出して、男は私を腕にしまい込んだ。熱い。もう私に、溶けるものは残ってない。一度なくなってしまったものは、もう戻らない。溶かしたのが彼だったら、きっと一緒にいられたのだろうなと思うと、やっぱり少し悲しかった。頭のてっぺんあたりがぽたぽたと打たれる。男の人が泣くとき特有の嗚咽が、頭から、耳から、彼の腕から、私の心臓を揺らす。この人、泣く人だったっけ。いや、「彼」は泣かない。今私を抱くのは、私の知らない、もう知ることのない男だ。
充血した目に情けない表情を浮かべた男は、言葉を発しようとしては飲み込む。きっと、昨日の私なら、こんな男を愛おしいと思ったのだ。ずっと求めていた姿だった。でももう、求めた私ではない。諦めたわけでもない。ただ、要らなくなった。
「愛していたよ」。痺れを切らしたわけではない。ただ、彼が精一杯引き出そうとしている言葉が何であったとしても、やはり今の私には不要なものだから、永久にその言葉が聞けなくなることも恐ろしくはなかった。むしろ自分の持っていた気持ちを永久に伝えられなくなってしまうのが嫌で、躊躇いも思いやりもせず言葉を放った。ずっと言いたくて、でも思っている時にはずっと言えなかった。その幼気で臆病な女の子の墓に花を供えて弔うと、立ち上がる。
「元気でね」。まだとっておきの一言を諦めず探している男を背にして、ドアへ歩いた。
「俺も、俺も愛してた。世界で一番大事だった。ありがとう。ごめんね。」恰好のいい言葉を諦めて、早口で男が言う。ありきたりなフレーズだな。受け取る人を失ったその言葉が、ふわふわと部屋を漂った。
外の空気は少し冷たくて、透き通った味がした。ピンクの靄がかった世界のまろやかな甘ったるさは部屋に置いてこれたようだ。
髪の重さに気づく。彼は長いのが好きそうだからと、この何年かで伸ばし続けた。本当は、彼がそれを好きかどうかなんて知らなかった。わからずじまい。でももういい。頭を後ろへ引っ張る、この3年間をバッサリ切ろう。切ってしまおう。